6月2日は本能寺の変の日。本能寺の変の真相や黒幕はどんなところにあるのか?要は明智光秀がブチ切れたからではないだろうか?

 6月2日は本能寺の変の日。1582年6月21日(天正10年6月2日)、明智光秀が織田信長を、京都・本能寺に宿泊を急襲し、息子の信忠ともども討つという、日本の歴史史上特筆すべき日ですが、なぜ明智光秀が主君の織田信長を撃ったのか、その原因は今に至るまで様々な憶測がなされています。

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勝手に本能寺の変の理由を考えてみた

 本能寺の変の理由、勝手な憶測で考えてみます。歴史の話だから、勝手な推理や想像も許してくださいな、誰に迷惑かける訳でもないので。
 明智光秀が織田信長に謀反した理由、もうそれは明智光秀が織田信長にブチ切れたから、ということではないだろうか。ブチ切れる理由は、結構あげられます。
 ①光秀の近江の領土を召し上げてまだ獲得してもいない毛利家の領土を与える、と言われていたこと、②丹波波多野家攻めの際に信長の判断で光秀の母親が殺されてしまったこと(母親を人質に出していた)、③徳川家康の接待役をクビにされたこと+その際に大勢の家臣の前で面罵されて恥をかかされたこと、④四国攻めに対する信長と光秀の方針の違い、等々。

 明智光秀は、美濃の名門明智家の出身+足利義昭の側近だったということもあり、プライドの高い人物だったと考えられます。そんなプライドの高い人間が、いくら上司とは言え、上記のような仕打ちをされれば、ブチ切れても不思議ではない?コレという決定打があったかどうかは分かりませんが、不満のマグマが溜っていって、そのマグマが爆発した結果が本能寺の変?

 織田信長も、比叡山への焼打ち等、相当エキセントリックな面があったと思われ、そういう意味では本能寺の変は起こるべくしておこったのかも?

本能寺の変の後の明智光秀は切腹を考えていた?

 本能寺の変の後、明智光秀は山崎の合戦で、岡山から引き返してきた羽柴秀吉軍に負けて、敗走の途中で命を落とす訳ですが、明智光秀は本能寺の変の後、京都のお寺で切腹を考えていたそうです。京都妙心寺にそんな話が伝わっています。最終的には止められて、山崎の合戦を迎えるのですが、クーデター起こした首謀者が切腹を考える、ってちょっと変。
 本能寺の変の後、明智光秀は切腹を考えていた、ということが本当であれば、命懸けで信長に復讐してやった、で目的達成したから後は責任とって腹を切ります、というストーリーが考えられます。
 けど本能寺の変の後、明智光秀が自ら腹を切っていたら、その後の明智光秀の評価、どうなっていたんだろう?ひょっとしたら、赤穂浪士みたいな評価を後世受けたりして。明智光秀は、赤穂浪士の話は当然知らない訳ですが。
 無礼を働いた主君に天誅を与えたものの主君を撃った不忠には変わりなく、責任とって腹を切ります・・・、というような遺書が見つかったりしたら、明智光秀の評価は少なくとも、90度くらいは変わっていたのかもしれません。

 けどね、サラリーマンが嫌な上司をやっつけるために、自分も犠牲にして・・・、ということなくは無いので、そう考えると本能寺の変って、理由は実は簡単なのかもしれません。真相は永遠に分からないかもしれませんけど。

 いずれにしても、どの時代も上司と部下の人間関係に悩むのが、サラリーマンの宿命ということでしょうか。今の時代、命まで取られることはありませんが。けど織田信長がそのまま生きていたら、その後の日本史はどうなっていたんでしょかね。これも結構興味あります。また時間あれば考えて=妄想して、みましょうかね。乞うご期待?

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