歴史マニアな管理人、「真田丸」は久しぶりに見る大河ドラマとなっています。先日何気に録画していた「真田丸」を見ていてフト思いました。小田原北条氏が滅亡したのは、神流川の戦いが原因じゃないか?

 豊臣秀吉に抵抗した長宗我部家、島津家は存続して、北条家が滅亡した理由、随分前から不思議に思っていたのですが、自分なりに答えが出たのかもしれません。北条家は本能寺の変の後、唯一織田一門と戦火(神流川の戦い)を交えて、滝川一益を上野から追っ払ってます。

 独断と偏見ですが、ここが長宗我部・島津家と北条家を分けた決定的な理由だったのかも。

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以前から不思議だった小田原北条家の滅亡

 学生の頃、「信長の野望」から始まって戦国時代好きだった管理人。当時から不思議に思っていたことがあります。なぜ豊臣秀吉と戦った長宗我部家と島津家は生き残って、北条家はお取り潰しになったのか?

 直接ガチに戦ったのは北条家だけ、とか、本拠地(小田原)まで攻めこまれたの北条家だけ、とか、もう全国統一ができた秀吉にとって北条家を残す理由がなかったから等、色々と理由は言われてますが、個人的には今ひとつピンと来てませんでした。

 豊臣秀吉に向かって、北条家だけ潰したの不公平じゃございませんか?、と聞いたらどんな答えが帰ってくるのだろう・・・、モヤモヤしたものがずーっとありました。

「真田丸」で見た神流川の戦い

 今年の大河ドラマ「真田丸」、管理人も久しぶりに大河ドラマ見てます。で、先日録画で見ていた「真田丸」、ちょうど本能寺の変の後、北条家が同盟を関係を破って滝川一益と一戦交えるシーン。

 世に言う神流川の戦いです。本能寺の変の後、当時同盟間にあった北条家が同盟を破って上野に5万もの軍勢で押し寄せ、上野で織田政権の関東総督的存在だった滝川一益を撃破。その結果、滝川一益はそれまでの地位を失い、清須会議に出席もできず歴史からひっそりと姿を消すことになります。

 ここで北条ひどい!、というのは簡単ですが、武田家討伐に協力したにもかかわらず、織田信長からは北条家に何の見返りもなし。北条家が狙っていた上野は滝川一益の領地となり、オイそれはないよ、という気持ちは分からないでもありません。

 そんなことが背景にあって本能寺の変で織田信長が倒れた後、神流川の戦いがある訳です。

 神流川の戦い、初戦は滝川勢が北条勢を押し返しますが、多勢に無勢、滝川軍は総崩れになり上野をさることになります。
 ちなみに管理人、神流川の戦いのあった付近に行ったことがあります。今も畑が広がっていて、非常にノンビリした土地です。その昔、そんな大きな合戦があったとは、思えないような場所です。

本能寺の変後、織田家家中と一戦したのは北条家のみ

 本能寺の変の後、ドサクサにまぎれて織田家家中と一戦交えたのは、実は北条家のみ。

 長宗我部家は海の向こう、島津家も遠くはなれてます。上杉家は重要拠点の越中魚津城を落とされ風前の灯火。毛利家は有名な話ですが、豊臣秀吉と講和したばっかり。

 織田家を囲む有力大名を見回すと、本能寺の変後に直接攻め込んできたの北条家のみ。これって織田家一門からすれば、ドサクサにまぎれて攻め込んできた北条ヒドイ、ということになりますわな、普通。

 毛利家も吉川元春が本能寺の変を知って、秀吉の背後を攻めるべし、と主張しましたが、そこは小早川隆景が、講和したばっかでそんなことしたら信義にもとる、と言って、静観。実際、宇喜多家が対毛利家対策として中国大返しをする秀吉軍の背後を岡山で守っています。

 ちょっと冷静に考えてみて、仮に毛利家が秀吉の背後を襲ったとします。その後、なんだかんだあって最終的に秀吉が生き残った場合、毛利家はどうなるか。

 そりゃ裏切り者としてお取り潰し、ですね。

 コレを立場を少し変えて見てみます。豊臣秀吉=滝川一益、毛利家=北条家。そうかんがえると、北条家が秀吉によってお取り潰しになったの、管理人的には非常にスッキリ分かるような気がします。

 何でもありの戦国時代だからこそ、信義を守った毛利家は生き残って、信義を守らなかった北条家は滅亡した、というような。

wikiの神流川の戦いの記事でも納得

 基本的に人の恨みは恐ろしいです。それは戦国の世も現在も変わりないと思います。

 で、「真田丸」を見た後、神流川の戦いをwikiで見てみました。

「神流川の戦い」(ウィキペディア)

 注目すべきは中ほど、「影響」部分の「滝川氏」の部分。滝川一益は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れたところまでは知ってましたが、その後も生き残ってます。そして北条家の関係で注目すべきは、

秀吉から1万5,000石を与えられ大名に返り咲いた(蟹江城合戦)。同時に、一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、佐竹義重や梶原政景と書状を交わしている。その内容は秀吉の北条征伐を予告するものであり、彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。

 滝川一益は豊臣政権で東国外交の窓口してたんですね。となると当然、北条許すまじと思っている滝川一益、豊臣政権として自分を実質的に滅亡させた北条を潰してやる、と思うのが当たり前。

 東国外交の担当者である滝川一益が秀吉に対して、裏切り者の北条なんぞ潰してしまいましょー、と積極的に働きかけて、そして結果的にそうなりましたとさ。

 どんなもんでしょ。管理人的には、北条家が滅亡した理由として、一番スッと入ってきますが。そりゃ、色々と背景的な理由もつけられますが、核心部分はこれじゃないかなぁ、と。

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その後の北条家

 小田原征伐の結果、無条件降伏を受け入れ、滅亡させられた北条家。実は血筋としては1万石の大名家として明治維新まで続きます。
 北条家5代当主の北条氏直は小田原征伐の後、程なく30歳の若さで亡くなりますが(北条氏直の苦悶は、想像に余りあります。機会があればまた書きます)。男子はいなかったものの、オジサンにあたる北条氏規(北条氏政の弟)の息子・氏盛が北条宗家を継ぎます。
 そして北条氏盛が徳川政権下で大阪狭山藩を1万石で立藩して、狭山藩は明治維新まで続き、北条宗家の血筋はかろうじて守られたのでした。

 ちなみに狭山藩は幕末、反乱を起こした天誅組に脅されるハメになり、そこで歴史に名前が出て来ます。その後の北条家を知っていた管理人としては、ここで狭山藩の名前が出てくるのか、ビックリした記憶があります。

まとめ

 小田原北条氏の滅亡、管理人の勝手な考えで理由を考えてみました。本能寺の変の前まで同盟関係にあった北条家と織田家。北条家の滅亡は、同盟を裏切った報い、と考えれば、分り易いのではないかな、と思いました。

 このあたり「真田丸」ではどう描かれるのでしょうか?まぁ、そのままスルーの可能性もありますが。

 「真田丸」を見て、長年の疑問が氷解したような気になりました。あくまでも独断と偏見ですので、ご承知おきを。

 小田原北条氏を知るにはこの一冊が最適です。

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